(仮)f4650-55の日記【「46にもなって、急に発達障害ではないかと…」から数年、50にもなると…。55からは…。】

(仮)発達障害のグレーゾーンという中途半端 な状態で、今後どのように人生生きていくか

「嫌いな奴でも…、仕事だからね…、」

中学の時、担当の先生が体育の先生で、

良い意味で、熱血、熱血というより物事ポジティブでした、今思えばよい先生に恵まれたと思います。

当時、40年前になりますが、その頃にもジョギングブームなどありましたが、それについても「健康の為にジョギングなんてするか?、楽しい事をでカラダ動かし、鍛えるのがいいじゃないか?そうだろ!」って、

たとえば、昼休み時間に、クラスの半分以上、しかも男子、女子混合で、馬乗などしていました、先生自ら参加です。馬乗でバク転で飛んだのを始めてみました、(反則だよなぁとは思いましたが体育の先生枠なので…)。女子の参加は多くはなかったですが、ジャージの下を履いて参加してましたね、とにかくその先生は、人を乗せるのが上手かったです。

私も何回か乗せられました。初めはクラスの緊急連絡表の枠作りをいわれ、簡単にサラサラと作成して提出、連絡表はまず、先生から発信、男子、女子と別れて連絡がまわり、最後に先生に戻る、スペースがひとマス空いたので転校生分として男子からも女子からも連絡が行くように工夫して提出しました。これはなかなかの力作でした、まぁ見た目には四角枠と矢印だけでしたけど。また学祭でも多分載せられたのでしょう、クラスのまとめ役をしました。先生の思うところも組み入れたり、乗っかったりしながら、自分もかなり頑張ったしクラスの人にも協力いただきました、

一回、学祭準備で遅くなった時に、クラスのヤナ奴(秀才タイプがいろいろ突っかかってくること)のこと先生に相談したのですが、やはりねー、という表情で相談にのってくれました、彼の背負っている事柄、性格や気質、彼は何もないところに線を引くことが苦手だという、(その点は私の方がすぐれていたという思う、そこまで先生が言っていたか良く覚えていませんが、何かと…、それから、相談は彼ヤナ奴の言動などにより、彼自身孤立していっているなどと、今考えると要らぬ相談だったのかもしれない、単なるお節介だったのだろうと…。(-_-))特に結論はなくただうまくやれよなってことに。最後に、先生自身が「教師仲間でもヤナ奴はいるさ、でも仕事だからね、うまくやらないとねっ、」といった、これは結構衝撃的でした。まぁ、教師同士全て仲良しではないことは、なんとなくわかっていましたが、言葉にされるとツライし、驚きでした。

今仕事で嫌な奴がいるし、会社がいろいろ配慮してくれて、その担当から外れて仕事をしているが、本来ならそんなワガママが通じるわけはない、仕事なのだから…。そんなことは、中学3の時に知っている話しなのだが…。

(-_-)

 

 

また、卒業式の後、校門から出てから少し歩いたところで、何故かその担当の先生が大きな声で、私の名前を叫んでいたのが印象に残ってる、なんか心配していたようであったが、今もって鮮明に記憶している。

 

ネットの発達した今、その担任の先生の名前で検索を何回かしたが、全くヒットしない。

私が卒業して早々に、その先生、「自分が駄目になる」とかいって他の中学に行ったと噂は聞いている。元気にしていればいいと思う。