以前、いろいろネットで発達障害について調べていたところ、ブログかなにかで、発達障害かどうかの判断として、発達障害の薬を飲んで効果があれば、発達障害であり、何もなければ発達障害ではないという内容を見た覚えがある。
そういう判断はわかりやすいと、感心したし、薬の服用を少し後押ししてくれたと思う。薬を飲めば白黒はっきりすると…。
当時はまだ薬についてあまり知識がなかったし、薬が万能という期待もあり、そういう考え方もあるのかと思っていた。
よく考えてみるとこの薬が効いたから発達障害であるというのもおかしな理論である。
薬の効果と発達障害での問題点が同じというわけではない、コトバの括り方や定義のしかたによるが、そもそも発達障害の定義も白黒はっきりしていないグレーだし、薬もたまたま試してみると発達障害に対して効果があるという類の物もだし(その後にいろいろ解明していく中で化学的に説明がついてきて白黒ははっきりしてはおるが、そもそもは)グレーな物であったと思う。
そんなことを、薬を試している中で思っている。
はっきりしていることは、(なんだかよくわからないが)問題があり、その原因があること。
そしてすることはその問題の解決をすること。そしてやり方はメモ帳や手帳、タイマー、スマホや薬でもなんでもあり、解決すればいいだけ。
実に簡単、コトバにすると、実際は泣けてくるほど大変…、というよりもよくわからない。
薬にどういう効果(人によって効果が異なる)があり、その人の持っている問題が解決するのであればOKだし、解決しないのであればNGだし、薬を飲んで頭の働きやら気付きなどが良くなっても、それが問題解決につながっていなければ実際NGである。
今一度、何が問題でどう対応するのか、そしてそうするためには何が必要なのかを再度考えてみる必要があると思う。
漠然とだが、少なくとも自分が問題と感じたものについて、原因と結果、そしてその事象ごとに問題を整理し切り分け、細かく対処するしかない、大づかみでこういうものだということが言えないようである、例えば薬を飲めばOKというような短絡的な物ではないと認識するようになっている状況である。 いやはやどうしたものか…。
それと、コンサータ二日目、どうも効果がパッとしない。
追記
趣味道楽の陶芸は、公民館の作陶に参加、今年初日である。
陶芸教室の作陶は昨日が初日であったが、仕事関係で欠席、また本日は教室で新年の餅つきがあったが不参加とした。
現在、薬を服用し、効果を試しているが、物事は前述の話のような単純なものではなく、細分化場合分けされていると感じる。