どうやら、生き方の基本認識に誤りがあるような気がしている。
少しの最終判断が甘い、その判断の根底に少しのヅレがある。
まだ、よくわからないし、コトバにもできないが、感覚的に「違うぞ」というシグナルを感じる。
どう感じるのかというと、今のままウジウジしていても、不平不満ばかりでは、良くならないし、仕事などしなければならないことを先延ばしにしていても、何の解決にもならない。そういう事など思うととはいっても、腰が重くできない、なんでできないのかというと、少々鬱っぽいからなのでしょう、でもその悪循環を断ち切らない事には、新たな展開は望めないのでしょう。
自分を責めても良い方向に向かわないし、そこにあるのはただ単に・・心を壊しかけた自分がいるだけですし、それをどうにかできるのは自分しかいない・・。
(いつ頃から、こんなになったのだろうか・・・、学生の頃は、いろんなことに自信があったし、いろいろ今思い返せば相手の立場を考えないような発言もしたし、人生の、仕事のステップの踏み方もちゃらんぽらんだったかも知れない、でもまだまだよかったと思う。わからないでそのまま人生を走り抜けてしまえばよかったのかもしれないが、そういう事にもならず、穴に落ちてしまったというよりも、自分から穴に飛び込んだような気もするし・・・、まあどうあがこうが、自分の人生である、自分でどうにかするしかないし、しなければならない。)
まだまだ、自分でも、いろんなことがらが整理しいきれていない。残念ながら・・・
もう少し時間が掛かるのであろう、早いに越したことはないが、自分が納得できない限り、変われない。いろんなものの流れが、急に早くなったような感じもしている、少しまずい感じもしてはおるが、流れについていけていない、そんな状況である。
追記;やはり思うのは、人生を生きるのに非常に多くのエネルギーがかかる、へこたれた姿勢では到底やりきれないのだろう、ましてや負のスパイラルに落ち込んでいてはダメ、ではどうしたらよいかはわからない。ストレスの原因を取り除くしかない、出来ない物は出来ないと諦める、出来たことを積み重ねていくそしてそれが楽しいまたは気持ちがいいと感じないと駄目なのだろう。
庭の手入れ草むしりも、少しづつ進めている、荒れ放題の庭や雑草も部分的に地面が見えてきているし、それは充実感、気持ちよさが伴う、重い腰を上げるにはこれしかないのであろう。
いろいろ考えてみると、どうもASD以外にも、ADHD的な障害も伴っていると感じる。8月の通院時点では様子見としていた薬の処方についても前向きに取り組まないとならなさそうである。どうも今のままで大きな改善はないのかもしれない、今のままで大きな改善を期待すること自体に無理があるように感じる。
(ザックリ、文章を書いたが、追記の内容がきっと結論、答えだとなんとなく感じる。すでに自分も答えを見つけているのであろう、ただ何だろう自分なりの手順というか認識のする順番などめんどくさいことがあるようである。自分でも面倒と思う。、なんなんだろうこの変な違和感は・・・・。)
さらに追記:先の「この違和感~」は、おそらくこのような負の文章を記載すること自体について良くないのかもしれないという違和感なのであろう、考え方をよりポップにポジティブにしていく、毒を吐く必要すらないのかも。もし吐くのであれば別のなにかなのであろう、まだよくわからないがきっとそうなのだ。)